日立の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

茨城県日立市歴史探訪
日立市の概要
日立市は、関東平野の北端に位置し、南北25.9キロメートル、東西17.9キロメートル、面積225.45平方キロメートルです。西は阿武隈山脈に連なり、東は太平洋に臨む山と海の豊かな自然に恵まれた茨城県北部の中核都市です。また、同市は日立製作所の企業城下町として有名で、市の人口の40%は日立製作所の社員かその家族が占めます。

日立のあゆみ
日立市内の鹿野場遺跡、六ツヶ塚遺跡などから約3万年前の石器が出土しており、この地域には当時から人が暮らしていたと考えられます。

日立が初めて文献に登場するのは「常陸国風土記」です。中世には佐竹氏らの支配を受けますが、江戸以降は水戸藩領となります。水戸黄門で知られる水戸光圀が、1695年(元禄8年)9月、神峰神社に参拝した時、海上から朝日の昇るさまを「日の立ち上る様は領内随一」と称して日立となったといわれています。

明治時代には、政府の殖産興業、富国強兵の方針によって、国内の銅の需要が増加、明治38年(1905年)久原房之助が赤沢銅山を購入し、日立鉱山として本格的に採鉱を始めました。また、日立鉱山の機械修理工場だった工作課が自社製品の開発に乗り出し、大正元年(1912年)、日立製作所として独立しました。こうして近代産業の発展を遂げる反面、銅の製錬時に出される排煙が深刻な煙害となりました。これを解決するために当時東洋一といわれた高さ155.7mもある大煙突が作られました。後にこの煙突は、市のシンボルとなり、新田次郎の小説「あるまちの高い煙突」のモデルになっています。

昭和14年(1939年)、日立鉱山と日立製作所の発展により人口が増加、多賀郡日立町と多賀郡助川村が合併し、日立市が誕生しました。しかし、太平洋戦争末期、軍需産業の拠点のひとつであった同市は、相次ぐ戦災に見舞われ、壊滅的な打撃を受けました。

終戦直後の同市は、戦災復興事業に着手し、昭和26年(1951年)には、国道6号と日立駅を結ぶ「平和通り」が開通しました。昭和30年(1955年)に久慈郡と多賀郡の1市2町4村が、翌年には多賀郡豊浦町が合併し、現在の日立市となりました。昭和32年(1957年)には、日立市を中心とする7市2町2村が、東京通産局から常陸工業地帯に指定され、その後の高度経済成長の過程の中で全国有数の工業都市として発展しました。昭和42年(1967年)に「日立港」が開港すると、重要港湾に指定され、今なお増大する海上物流の拠点として整備が進められています。

平成に入ると日立駅前開発事業として、平成2年(1990年)に「日立新都市広場(愛称パティオ日立)」と、市の新たなシンボル的施設である「日立シビックセンター」がオープンし、平成6年(1994年)には、自然体験型レジャー施設「奥日立きららの里」がオープンしました。

平成16年(2004年)11月1日に多賀郡十王町と合併し、新生日立市は県北地方の中核都市として、「活力ある創造・交流・環境都市」を目指し、都市基盤の整備を進めています。


日立の名前の由来
「水戸黄門」として広く知られている、水戸藩二代藩主・徳川光圀が、当時の日立地方を度々訪れ、「日の立ち昇るところ領内一」と言ったという故事に由来するといわれています。


日立市の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
日立市郷土博物館
住所: 〒317-0055
茨城県日立市宮田町5-2-22 [地図を見る]
電話番号: 0294-23-3231
開館時間: 9:30〜16:30
休館日: 月曜、祝日、年末年始(展覧会開催期間中の祝日は開館)
入館料: 無料(特別展示は有料







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